奈良時代の平城京から延暦3(784)年に、都が遷(うつ)された長岡京。平安京遷都(794年)までのわずか10年の首都で、造営工事途中での廃都となった長岡京だが、その跡地から次々と見つかっているのが、巨大な須恵器の甕(かめ=口径の大きな深鉢型土器)を設置した建物(甕据付建物)の遺構だ。宮域や貴族邸跡だけでなく、市街地など広範囲で確認されており、その用途はほとんどが、酒などの醸造施設とみられることが判明。長岡京の時代には貴族層だけでなく、一般市民層にまで広く、飲酒が普及していた実態を裏付けることになりそうだ。(編集委員・上坂徹)
■21カ所に28棟
長岡京は北から西にかけて広がる段丘の上に立地し、地域を碁盤目状に区画する条坊制を採用。南北十条(約5・3キロ)、東西は左右各四坊計八坊(約4・3キロ)ある。わずか10年の都とはいえ、都市の規模は平城京にも匹敵する。北側中心部分に内裏や大極殿などが立ち並ぶ宮域を設け、宮に向かう形で都の中心を朱雀大路が通る。その西側を右京、東側を左京としていた。
長岡京跡で初めて大規模な甕据付建物が確認されたのは昭和61年。京の南端に近い右京八条二坊七町にあたる場所から、東西に長い掘立柱建物で内部に円形の穴(直径0・4~1・3メートル、深さ0・15~0・3メートル)を51基持つ施設跡が出土した。「甕に米が納められている」と記された木簡が京内で見つかっていることや、類例の研究から、穴には巨大な須恵器の甕が設置されていたことが分かった。
平成23年になって、この建物跡のすぐ東側から、東西5間(約10・5メートル)、南北2間(4・8メートル)で廂(ひさし)のある掘立柱建物跡が出土。内部には23個の穴が設けられていた。西側にある溝跡からは須恵器の大甕の1個分が壊れた状態で出土した。9割程度が残っていたため、調査した長岡京市教委が復元作業を実施し、底部から口縁部まで完全な形でそろった甕を再現した。甕は高さ112センチ、胴の直径114センチ、口径58センチで、容量は約670リットルに上り、古墳時代から作られてきた大甕の中で日本最大クラスだった。
これまでの調査で、確認された甕据付建物は、長岡宮内で1カ所1棟、左京で11カ所12棟、右京で9カ所15棟の計28棟にのぼる。長岡京の造営工事が進められていたとみられる縁辺部にまで分布していた。
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February 26, 2020 at 12:00PM
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