中国放送
リニューアルオープンしたばかりの平和公園のレストハウスから小林康秀キャスターに伝えてもらいます。 広島市には、このレストハウス以外にも多くの被爆建物がありますが、その数は年々少なくなり、保存のあり方を巡って議論を呼んでいます。 広島市には、かつて数多くの被爆建物がありました。 原爆投下直後に医療の拠点となった旧広島赤十字病院は、1990年から93年にかけて解体。被爆当時は、NHK広島放送局で、その後、福屋幟町別館として使われた建物は、1997年に解体されました。 次々に姿を消してきた被爆建物。今、3つの建物が注目を集めています。 旧広島陸軍被服支廠。軍服や靴の製造拠点で、被爆当時は臨時の救護所が置かれました。れんが造りの倉庫4棟が残り、このうち1棟を国が、3棟を県が所有しています。 県は、3棟のうち2棟を解体し、1棟の外観を保存する案を示しましたが、市民団体が保存を求める署名を提出したことなどから結論は先送りされています。 こちらは、先週、リニューアルオープンした「広島アンデルセン」。オープン初日は、たくさんの人でにぎわいました。 被爆当時は帝国銀行広島支店でした。民間のアンデルセングループが、パンの販売やレストランに活用してきましたが、建物全体の保存は断念。被爆した壁の一部が保存されました。 今回、わたしたちが注目する被爆建物は、広島市のレストハウス。大規模な改修工事によって土産物の売店や喫茶・休憩ホールなどが整備されました。より多くの観光客が訪れるようになった一方で、こうした被爆建物の保存のあり方には、疑問の声も寄せられているんです。 リニューアルオープンした平和公園のレストハウスは、被爆前の建物「大正屋呉服店」の面影を再現しています。 現在の平和公園一帯は、広島一の繁華街でした。これは、今の平和公園がある場所の原爆投下前の様子…。売り出しでにぎわい、たくさんの人が行き交っています。 「きれいなところじゃけえ、ガキが入ったら、しかられるところだった。中はのぞいたら着物がね…」(元住人 浜井徳三さん(85)) 10歳のころまで街に住んでいた浜井徳三さんは、呉服店の近くで理髪店を営んでいた家族を原爆で失いました。復元した大正屋呉服店の姿を一目見ようと足を運びました。 「懐かしいね、ここへ来たら。こうやって取り上げてもらったら、ぼくが生きている間は思い出せるよね。」(浜井徳三さん) 館内に展示している法被は、大正屋呉服店の従業員が着ていたもの。戦時中に閉店した当時、営業総務部長(店長)だった若狭金治郎さんが遺したものです。広島市の「わかさや呉服店」で大切に保管されていました。 「これは、わたしの祖父が大正屋に勤めていた時に着ていたと思われる法被。もう80年以上経っているかな…。」(わかさや呉服店 若狭利康さん) 孫の若狭利康さんは、10年ほど前に自宅の蔵で見つけました。 「これが、大正屋のマーク。おもしろいのが下の部分。ここに『5』本、線がある。『福という漢字がある。合わせると「ごふく」になる。破れているし、穴もあいているし、ボロボロなんですけど、ほかのものに比べると、虫が食ったりとかはない。当時のにぎわいが感じられますよね。」(若狭利康さん) 大正屋呉服店は、戦況が厳しくなり、衣料品も切符制になったことから1943年12月に解散。その後、県の燃料配給の組合事務所として使われている時に原爆が投下されました。 呉服店は、戦後、「わかさ屋呉服店」として今の場所に再開し、若狭さんが継ぎました。古い客から当時の呉服店のことを伝え聞いたそうです。 「大正屋のたとう紙…。小さいので、着物じゃなくて、小物を入れていたのかなと思うんですけど、いただいたんです。(当時通った)お客さまから。」(若狭利康さん) 多くの客から愛された呉服店の雰囲気を、多くの人に感じてもらいたい…。リニューアルを機に、法被を寄贈することを決めました。 「よそには持っていけませんよ。大事な祖父のものですから。ただ、そのうち機会があれば、世に出せればいいなと思っていました。」(若狭利康さん) 法被から感じるかつての町のにぎわいは、同時に、それを奪った原爆の悲惨さも伝えます。 「当時の活気や中では、こういう人が働いていたんだと知ってもらえたら。(祖父も)この辺で喜んでいると思う。」(わかさや呉服店 若狭利康さん) 一方で、広島市に寄せられているのが「被爆建物なのにきれいにしすぎだ」という意見です。 「昔はこちらから入って、ここに降りて行ったんですね。みんな、ヘルメットつけて。20個しかないので、降りては、出て、入っていく…。たくさん、子どもたちがいると、たいへんだったんですけど。」(県被団協 平和学習担当 大中伸一さん(70)) 佐久間理事長の県被団協で平和学習を担当している大中伸一さん(70)は、長年、平和公園を訪れた子どもたちにレストハウスを案内してきました。 大中さんは改修後のレストハウスは、「建物が持つ意味が伝わりにくくなった」と言います。 「昔の面影がほとんど消えてしまった。」(大中伸一さん) 75年前、建物が県の燃料配給の組合事務所として使われていた時、爆心地からたった170メートルしか離れていないこの場所で、生き残った男性が居ました。偶然、地下にいて、ただ1人助かったの体験記が、パネルで紹介されています。 「8時15分、書類が見当たらないので、あちこち探して階段下の金庫のところに来た。あっ、しまった、直撃弾だ。この地下室だけが、わずかに残ったんだと感じると、たまらない気持ちになった。」(野村英三さん 体験記より) 地下は、野村さんが被爆した当時のままの状態で残されたあと、観光客らが見学する場にもなってきました。 「一番、わたしが説明していたのは、ここ。当時は物資が足りなかったので、木レンガという言い方があるが、木を中に入れている。そうするとコンクリートが少しでも少なくなるからというので、そういう意味では粗末だったと思うんですけど。」 75年前、この場所で爆風に耐えた柱です。ていねいに説明するパネルも大切だけど、見栄えの悪い壁や古めかしい雰囲気も、ここで実際に起こった出来事を想像する材料になる…。大中さんはそう考えています。 「もし、あなたがあのとき、ここにいたらどうでしょうかと。追体験できる場は、ぼくは必要だと思うんです。ここは格好の場所だった。子どもたちもあそこまでは、ザワザワ言うんですけど、階段を降りて、ここへ入ったとたんに声がなくなる。入るだけで雰囲気がわかった。当時のね。ところが、きれいにすると、わたしたちが、ここはこうですよって説明しないといけなくなってしまった。これが、ここに何回か以前に入った人の共通した願いです。『きれいにし過ぎた』と。」
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August 07, 2020 at 10:48AM
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レストハウス“きれいすぎ”の声も 被爆建物どう保存? 被爆75年 未来へ(RCC中国放送) - Yahoo!ニュース
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